ESOMAR GMR日本アンバサダー 一ノ瀬 裕幸
ChatGPTをはじめとする生成AIの登場以来、市場調査業界でもAIをどう活用していくのかが大きな関心事になっています。それと並行して、日本ではまだあまり話題になっていないのですが、特に欧米で「合成データ(Synthetic Data)」と呼ばれるAI加工データの生成とその活用法について、賛否両論が渦巻く大変活発な議論が繰り広げられています。そもそも合成データとは何なのか、それが今後どのような影響を及ぼそうとしているのか、国際的な論点の紹介を通して考えておきたいと思います。
1.合成データの定義と活用例
合成データ(Synthetic Data)とは、現実のデータを直接利用するのではなく、AI(コンピュータ)のアルゴリズムを使って人工的に作り出されたデータのことを指します。このデータは、過去に蓄積されたデータを機械学習することによって統計的な特性やパターンが現実のデータと似通うように設計・生成されるのですが、実際の個人データや事象には紐づいていません。
例えば、クライアントが新商品の市場調査を実施したいと考えたとします。しかし、プライバシーの問題やコスト面の制約から、実際の消費者データを収集することが難しい場合があります。特に欧州では、GDPR(EUの個人情報保護法制)の影響で実査が困難か、さまざまな制約が課されるケースが増えているようです。そのような場合に合成データを使えば、現実のデータを模倣しながらも個人情報を含まない安全なデータを生成し、代替させる形で利用することができます。
具体的な活用目的や利点と考えられていることは、以下の通りです:
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1. プライバシー/機密保護
合成データは、実際の個人情報を含まないため、データ漏洩のリスクを減らし、個人情報保護法を含む各種規制に対応しやすくなります。特に医療系や金融系など、機微な情報や機密情報が重要な分野で役立つとみられています。
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2. データ収集コストの削減
調査テーマや目的によっては、現実のデータを収集することに多大な時間や費用がかかる場合があります。代替手段として合成データを使用すれば、必要なデータを素早く、安価に生成・利用することができます。
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3. モデルのテストとトレーニング
これは生成AIの普及に伴って活用度の増した分野です。合成データはAIや機械学習のモデルを訓練するためにも使われています。例えば、自動運転車のシステムをテストする際に、現実の事故データを使う代わりに合成データで様々なシナリオを再現し、シミュレーションを行うことができます。そのほかにも、自然科学分野の各種実験領域では盛んに活用されるようになっているようです。
日本の事例でみますと、JMRAの「AI・イノベーションセミナー第3回(2024.08.02)」で紹介された、ビデオリサーチ社の“「デジタルクローン」技術と生成AIを活用した「Asclone」サービス”がわかりやすいと思います。
https://www.jmra-net.or.jp/activities/event/2024/20240802r.html
2.市場調査業界における活用と批判(慎重意見)
さて、筆者はISOの国際会議やESOMARの各種イベントに参加する機会があり、2年前からこの問題に関心を持って議論のゆくえを追いかけてきました。以下に、私見ながら直近の推進派と慎重派(批判派?)の論点をまとめてみたいと思います。なお、定量的には推進派(慎重意見を含む条件付き推進派を含む)が7割、批判派が3割といったところではないかと考えています。12月に来日されたESOMAR会長のRay Poynter氏も、同様の意見でした。
a. 推進派の論点
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従来の調査手法ではカバーできない、広範かつ充実した、整合性の高いデータが得られる(生成AIが膨大かつ多様なデータベースの蓄積の上に成り立っているため)
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従来のデータと比較検証を行った事例では、おおむね90%以上の類似性を確保している(筆者は検証の具体的な内容までは確認できていませんが…)
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少なくとも仮説構築段階や、調査企画の壁打ち段階では、有能な助手またはパートナーとして機能しうる(上記ビデオリサーチ社の事例など)
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従来の市場調査用アクセスパネルの品質低下が懸念される中で、有効な代替手段と考えるべき(この点は正直、耳の痛いところではあります)
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何といっても安価で迅速なデータ収集が可能になり、再シミュレーションもできる
(→ 浮いた時間で、リサーチャーは分析や解釈に集中できる)
参考意見として、2024年5月にESOMARの定例メルマガ“RESEARCH WORLD”に掲載された記事(日本語訳の文責は筆者)を参照ください。
Synthetic Data_by Research World_和訳1(ESOMAR “RESEARCH WORLD”: 2024/04/02 合成データ: データに基づく意思決定のゲームチェンジャー)
b. 批判派/慎重派の論点
(まず、既存の手法や考え方に変革をもたらすテクノロジーに対する懐疑的な反応が示されることは、人間としてごく自然な感情と思われますが、それは脇に置くとして、)
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「それは、メイキングと何が違うのか?」。― しょせん、AIが勝手なアルゴリズムで作り出した架空のデータではないのか。
(→ これに対しては「ウエイトバック集計よりは”よほどまし”では?」との反論あり)
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厳密さ、客観性、透明性に欠ける(ブラックボックス化し、説明責任を果たせない)
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- 合成データは現実のデータを完全に再現するものではないため、不適切に使用するとバイアスや誤解を増幅させる可能性がある
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- 特に、元の学習データにバイアスや社会的偏見が含まれている場合、そうした偏見を増幅させたり、バイアスを永続化してしまう恐れがある
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- 生成に使用されるアルゴリズムやデータソースの信頼性を検証することが困難
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本質的に数学的にモデル化されたデータであり、過去の模倣であって、新しい市場環境に適応できないのではないか
(→ これに対しては「最終意思決定段階では従来と同様の調査を行うことを否定しない。少なくとも前段階の時間やコストは節約できる」との反論あり)
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倫理的な問題やコンプライアンス面のリスクを排除しきれないのではないか
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合成データが他のデータと同様に学習用データに組み込まれた場合、データベース(データレイクともいう)が汚染されてしまうのではないか
こちらも同様に、2024年8月に“RESEARCH WORLD”で公表された記事(文責:同)を参照ください。
Synthetic Data_by Research World_和訳2(ESOMAR “RESEARCH WORLD”: 2024/08/15 合成データ: 参加した上で、賢くやろう!)
3.法的な規制に関する論点
この合成データの扱いに関しては、(生成AIの利活用にかかわる全般的な問題でもありますが)ESOMARで法規制上の問題点について別途検討が進められています。
少々専門的な課題となりますが、特にデータプライバシーと知的財産権への影響が焦点となっています。ここはESOMARとEU規制当局との折衝結果を待ちたいと思いますが、主要な論点は以下のように整理できると思われます。
(1)合成データは十分に匿名化され、(ほぼ)GDPRの規制対象外となる(はず)
この技術が、市場調査業界を変革する可能性を秘めたプライバシー強化技術であることは否定できません。合成データは、個々人の直接的な識別子を公開することなく、実世界のデータセットを模倣するように設計されており、特に患者の機密性が最重要課題である医療分野において、GDPRのような厳格な規制に準拠するための重要なツールとみなされています。
ただし、合成データが既存の法律の下で完全に匿名化されたデータとして分類できるかどうかは、現段階では(まだ)微妙な問題です。再識別リスク、厳格な検証プロセスの必要性、データセットのプライバシーと有用性のバランスを取ることの課題が議論されています。
(2)合成データは知的所有権の対象となるのか、また誰にデータの所有権があるのか
さらに、合成データのセットとそれを生成するアルゴリズムに関する知的所有権の問題も難しい課題です。この技術をさまざまな業界で倫理的かつ透明性のある方法で使用するための包括的な法的枠組みが求められており、当業界もそうした議論に参画しています。
特にご興味のある方は、2024年9月発行のESOMAR『Global Research Software 2024』の第4章「Synthetic data: A regulatory perspective」をぜひ参照ください(英文:ESOMAR会員は無料)。
https://esomar.org/reports-and-publications/global-research-software
4.当座のまとめ
合成データは、プライバシー保護やコスト削減、イノベーション促進に役立つ有用なツールとなって日本市場にも波及してくることが予想されます。仮説探索/構築型の調査テーマ需要が代替されてしまう懸念があることは承知していますが、基本的に「新たなビジネスチャンスが到来している」ととらえるべきと考えます。
もちろん、その利活用には十分な注意と責任性が求められ、法的にも未解決な課題が残されています(世界的に、知的産業全体にかかわる課題と言えます)。ただ、事態の成り行きを見守っているだけでは変化に遅れてしまうでしょう。この技術がより良いサービスや手法を生み出す可能性を秘めていることを重視し、今後さらに情報収集に努めてまいりたいと思います。引き続き、JMRAリサーチ・イノベーション委員会のAI・イノベーションセミナー等でも取り上げていきたいと考えています。
※合成データについては、そもそもの定義からして百家争鳴な状況で、業種によっても理解/解釈が異なるケースがあります。本稿は、現時点での市場調査業界の文脈からみた筆者の見解であることをご了承ください。
以上
2025.1.21